二重メタファーに打ち勝つ、ヨガスートラ

  • 2018.08.06 Monday
  • 09:33

8月になりました。

 

今日は原爆の日、世界平和の祈りを捧げる共に

 

西日本豪雨災害の被害者方々へ、1日も早い復旧をお祈り致します。

 

OM SHATIH SHANTIH SHANTHI

 

 

皆さんは「メタファー」と聞くと何を連想しますか?

メタファー(metaphor)という語は、meta(越えて)+pherein(運ぶ)というギリシア語を語源とする。

文字通りには「別の場所への移動」を意味する。

普通は「隠喩」と訳され、「のようだ」「の如し」という表現をもつ

http://buddhism-orc.ryukoku.ac.jp/old/ja/annual_report_ja/annual_report_2006_181-188_ja.html

 

「の如し」

 

いつの間にか使っている、便利なツールが「メタファー」です。

ジュリエットは薔薇のように美しい

 

「AはCを通じてBと共通する」

 

「ジュリエットは美しさを通じて薔薇と共通する」

 

これを修辞学では明喩といいます。

 

それを少しひねって

ジュリエットは薔薇だ

 

美しさは自明として省略。

 

これを隠喩といいます。

http://blog2.hix05.com/2017/04/post-3127.html


 

遅ればせ、村上春樹の「騎士団長殺し」を読んでみたのですが

 

物語の重要な概念となるのが「二重メタファ−」という造語でした。

 

二重メタファーとは、「奥の暗闇に潜み、とびっきりやくざで危険な生き物です」

 

言葉遊びのように、真実からかけ離れた解釈を招く恐れがあるのです。

 

「ジュリエットは薔薇のように美しい」→「ジュリエットは薔薇だ」
 

薔薇に対して「美しい」とすべての人が共通理解をもっているわけではないということです。

 

「薔薇にはとげがあり禍々しい」というイメージを持っていたとしたら

 

→「薔薇は禍々しい」

 

「ジュリエットは薔薇だ」⇒「ジュリエットは禍々しい」

 

という解釈になるかもしれません。
 

これはシンプルな例で、すぐに???と気づくことができます。

 

これが「概念メタファー」に応用されるとやっかいです。

たとえば、我々は「気分が高揚する」とか「気分が落ち込む」といった言い方をする。

「哀楽」を「上下」になぞらえて理解している

⇒「楽しいは上、悲しいは下」(HAPPY IS UP; SAD IS DOWN)

 

また、「社会的地位」も「上下」によって理解されるという。

一代で成り上がり、そしておちぶれる。

⇒「良いは上、悪いは下」(GOOD IS UP; BAD IS DOWN)

 

人の感情から、「地位」などの社会的概念、そしてさらに「善悪」という抽象概念までもが、「上下」という人間の肉体感覚に根差した単純な概念によって理解されている。

これはメタファーが単なる言葉の綾ではなく、我々の認知に深く根差した存在であるからにほかならず、つまり我々はメタファーで考えているのだから、メタファーなしにはこれらの概念を理解する事すらできない。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%82%E5%BF%B5%E3%83%A1%E3%82%BF%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC

プラスな応用例

 

「SAMURAI BLUE」

「小池グリーン」

 

といえるでしょう。

 

マイナスの応用例

 

「おまえは黒だ」

「窓際族」

 

かもしれません。

 

人は心という道具を使って、イメージで物事を理解する癖がついています。

 

歳を重ねると、脳はシナプスを繋げて、その能力を更に発揮します。

 

 

時代や文化の背景を受けて繰り返し使われることで、

 

世襲を越えて普遍化したメタファーを「概念メタファー」といいます。

 

ここで生じる、二重概念メタファーとは

 

楽しいことは良いことであり、悲しいことは悪いことである

 

(HAPPY = GOOD, SAD=BAD)

 

成り上がりは良いことであり、落ちぶれるのは悪いことである

 

上記のように私たちの考えを、きわめて限定的な方向へ自動化してしまうのです。

 

それでは下記のような例はどうでしょうか?

 

 

ヨガとは映画である

 

 

続く

 

JUGEMテーマ:広島 ヨガ

『ラ・ラ・ランド』現実から遊離した精神状態

  • 2018.06.29 Friday
  • 11:22

 

カラ梅雨を吹き飛ばす

 

雷と大雨の広島の朝

 

一転!静かな空と涼しい空気へと移行

 

途端、関東では平年より22日早く梅雨明けしたそうですね☆

 

梅雨明けの夏空に向けて聞きたいこの曲♪

 

映画「ラ・ラ・ランド」の「Another Day of Sun

 

「ラ・ラ・ランド」はLA(ロスアンジェルス)を意味するそうですが

 

別の意味は「現実から遊離した精神状態」なのをご存知でしたか?

 

 

ハーバード大学の神経解剖学者、ジル・ボルト・テイラーが体験した

 

不安も悩みもない世界「ラ・ラ・ランド」が有名です

 

 

 

解説記事もヒットします♪

1996年12月10日の朝、米・ハーバード大学の神経解剖学者ジル・ボルト・テイラー女史は、脳卒中を発症。左脳の血管が破裂し、その機能を失った。世界的講演会「TED」に登壇したテイラー女史は、その時の様子を、歩けず、話せず、記憶力も読み書き能力も失い、まるで「大人の体をした赤ん坊」になったかのようだったと語っている。

だが脳の残りの50%を司る右脳が、テイラー女史の意識を掌握し、耳を疑うようなスピリチュアル体験をすることになる。 左脳の機能を失ったテイラー女史は、自分の体の境界が曖昧になっていき、周囲のエネルギーと一体化するのを感じ、同時に、全てのストレスが消え、平安で満ち足りた気分を味わったとのことだ。

テイラー女史は、その世界を愛着を持って「ラ・ラ・ランド」(忘我の世界)と呼んでいる。

 

 

これを見ると、恐ろしく思われがちな死とは

大人のカラダをした赤ちゃんに帰って行くことであり

そもそも人間そのものの純粋精神は、何の悩みも恐れも無く

あるがままで完全。満ち足りた状態なのだなと、感じられます。

 

死地に見た「ラ・ラ・ランド」。脳科学者の体験した右脳の世界

大出血から2週間後、ジルの左脳を圧迫していたゴルフボール大の血栓は取り除かれた。しかし、彼女が完全に回復するまでには8年という長い月日が必要であった。 そして今、2つの世界を知った彼女は問いかける。

「さて、私たちはいったい何者なんでしょう?」

「この世界の中で、どんな人間でいたいのか、どのようにありたいのか?」

それを「選ぶ力」が誰しもに備わっている、と彼女は断言する。

右脳の世界(ラ・ラ・ランド)は広大無辺であり、そこには何の境界線も存在しない。一方、左脳の世界(現実世界)は「自分」という狭い一本道である。その一本道は外界と完全に遮断されており、他者とは別個の存在である。 「この全く異なる2者が、私たちの中に存在しているのです。みなさんが選ぶのはどちらですか? いつ、それを選びますか?」

 

誰もが持つ「ラ・ラ・ランド」に至る道は

 

左脳から右脳へ歩み寄ること

 

動画では、具体的な方法は発言されませんでしたが

 

別記事ではこのように語っています

『奇跡の脳』が経済危機脱出の扉を開く 第3回 ジル・ボルト・テイラー×日経ビジネス オンライン

編集部 回復後に、ふたたび「宇宙と一体化する」感覚を体験されたことはありますか?

博士 いつでも体験できます。スイッチを入れるだけで、簡単なんです。

まず、心を「空」にする決意をしてください。

ある人はヨガ、ある人は瞑想、祈り、あるいは森を散歩するだけでいいみたいですよ。

 

ここで!ヨガが登場したわけですが(笑)

 

今から2000年も前に記された

 

ヨガの聖典「ヨガスートラ」には至る所に

 

三昧=ラ・ラランドへの道しるべが記されています

 

心を空にするには「修習と離欲」

 

その具体的な手法が「クリヤーヨガ」

ヨーガスートラ 第2章 〜たましいを磨く方法

クリヤーヨーガとは「行いのヨーガ」である。

―す圓望霰をささげること

⊃瓦鮃發瓩觸駟を読むこと

自在神を祈念すること

上記の3つをおこなうことで、煩悩を弱めて、三昧に至る。

すなわち心の荒波を乗り越え、ほんとうの自分を発見することができる

 

またジルボルトテイラー女史は、ほんとうの自分の境地を、下記のように例えました。

 

「私の魂は巨大なクジラが静かな幸福の海を泳ぐように自由に飛翔しました」

 

「happy whale images」の画像検索結果

 

ヨガスートラのすごいところは、その幸福の海の先まで細かく記しているのです。

ヨーガスートラ 第3章 〜悟りの価値は

もっともこれらの超能力は、本当のサマディの妨げとなるものなのだが・・・俊足を得、千里眼を得、世界を牛耳る力を得る。

みられるものであるサットヴァと、みるものであるアートマンを見極める力こそが、 全てを知り、総てを統べる力となる。

以上のようなすぐれた超能力が付いても、

それに捕われ、惑わされなければ(離欲 ヴァイラーギャ) すべての悪いビージャ(業)が絶たれて、

真我の独存の状態(カイヴァリヤ)となる。

 

本当の自分とは?

 

Another Day of Sun」を聞きながら

 

自由な境地へ思いを馳せてみてはいかがでしょうか?

 

ナマステ

 

 

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ヨーガスートラ 第4章 〜最後の悟り

  • 2014.05.03 Saturday
  • 22:51
第三章の続きです

いよいよ終局。未完の完


第4章 〜最後の悟り 輪廻転生から解放されるために

これらの神通力(シッディ)は下記のように授かる。
〜粟い棒僂鵑請厩圓里かげで、生まれながらに備わる
¬草の力や、マントラを唱えることで、トランス状態的に備わる
8支則に従い、ヨガの修行に励み(タパス)、悟りの段階(サマディ)に入ると生じる


輪廻転生は、この世界の(プラクリティ)の流れによって引き起こされる。
善悪の業(カルマ)は輪廻転生の根本原因ではない。

なぜならプラクリティとは、運河のように流れるものであるからだ。
運河の水がどこに流れるかは、農夫の働き次第であるように
行いによって水の流れる先、そして生まれ変わる先が決定しうる。

転生先によって、心の在り方、迷いは様々だが、すべては
アスミター(我想):主体と客体を混同してしまうこと
不確かなものを永遠と思い込むような勘違いから生じる。

心の現われ方は様々かもしれないが、心の支配者は唯一で変わることがない。

ヨガの修行で悟りを得れば、カルマ(行為)の応報から逃れることができる。

ヨーギーのカルマは、白(善)くもなく、黒(悪)くもない。
他者のカルマは、善か悪かそれらが混じり合ったものである。

カルマは、潜在意識に積み重ねられて行き、
現在の条件に合うものが、現世に現れて来る。
たとえ生まれ変わっても、時空を隔てても、縁が合えば現れる。

いくつもの運河が注ぎ込み続ける海に対して
運河の水がどこから海になるのか、始まりも終わりもないように
潜在意識の海にも同じようなことが言える。
http://www.plinst.jp/musouan/yuishiki12.html
心のゆらぎ(波)がどの運河によるものかは定かではないし、始まりも定かではない。

潜在意識は、四つの要素で、構成されている。

第一の要素は、善因や悪因である、原因である(運河)
第二の要素は、善果や悪果である、結果である(農夫の働き)
第三の要素は、潜在意識の器である、心である(海)
第四の要素は、現れる条件となる、対象である(波)


四つの要素が無くなれば、潜在意識も無くなる。


もう起こってしまったことも、まだ起きていないことも
それ自体としては実在している。
過去であろうと未来であろうと、性質が異なるだけである。

顕在意識にあるものも、潜在意識にあるものも
すべてはグナの形態変化によるものである。
3つのグナ(自然界の性質)
 .廛薀ーシャ(目覚める)▲リヤー(進む)スティティ(止まる)
グナの形態変化
 〔楹个瓩なく未発達の段階
 ¬楹个瓩燭発育していない段階
 3菷に発達している段階
 せ澆泙訝奮
グナの性質(nature)によって、それらは現われたり、かすかであったりする。


みられるもののアイデンティティ(自己同一性)は、グナの形態変化のルールによって構成されている。

みられる対象は1つでも、映し出される心によってさまざまである。

みられる対象はどれか1つの心に依存されているのではない。
もしも依存していたら、それ以外の心に認識されなないものはどうなるのか?

心は、それ自体が対象に染まることで、認識をする仕組みなので
染まらなければ、知らない対象もでてくるのだが
心をみるもの(真我)はいつでも、心の働きを意識している。
心の主君である真我は、転変しないからである。

心は自分自身を理解することはできない。
他者の心を理解することもできない。
理解することができたとしたら、鏡合わせのような
無限にお互いを映し出し続け、記憶の混乱が生じるだろう。

純粋精神である真我は、自分から認識対象に関係したりはしないけれど
心が自分の姿を映し出すことで、それがアイデンティティとなる。

心は、心をみるもの主体と、心が映すもの客体の、
双方から染められることによって成立する複合構造である。

心は過去に蓄積された無数の残存印象を保有して多種多様であるが、
実は真我のために存在する、複合的な関係なのである。

真我(アートマン)と認識(ブッディ)の違いが分かると、
自己の存在に関する、様々な思いが無くなる。
そのとき、心は、独存の方に向かうようになる。


たとえ、このような、心の状態になっても、
まだ様々な過去のカルマが、心に入り込んでくる。
これらの行を止めるのは、先に述べた方法しかない。


ヨギーが修行で、プラサンキャーナ(深智)を得て
欲望や期待を抱かないと、法雲三昧(ダルマメガサマディ)となる。
あらゆるカルマも消滅する。

かくして、すべての欲望とカルマを消し去ってしまえば、
一切の知識は、ヴェールと汚れを取り除かれて無限になり、
更に知らないことがほとんどないかのごとく全知全能となる。

これによって、グナ(3つの性質)は使命を終え、変化のサイクルも終了する。
このサイクルは、刹那と刹那を繋げることであり、
この終局に至り、ようやく、そうだったのかと初めて把握される。

カイヴァリヤとは、性質(グナ)が
プルシャ(真我)のため、という動機をまったく失って、
逆の順序で自分の本源(真我)に戻っていくこと。
あるいは、純粋精神なる真我が、それ自体に安定することだ、といってもよい。
これが、真我の独存の状態(カイヴァリヤ)である。
 
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ヨーガスートラ 第3章 〜悟りの価値は

  • 2014.05.03 Saturday
  • 22:48

 第2章の続きです

この章では8支則の続き、サンヤマについて書かれ、

また悟りを得ることで得られる、超能力が解説されています

もうそろそろ、サンスクリット語を勉強せねばという気になってきました

頑張ります

第3章 〜悟りの価値は

第六の門:凝念(ダーラナー)
凝念とは、心を特定の場所にとどめる事、1つの波に集中することである。

第七の門:静慮(ディヤーナ)
静慮とは、凝念の対象に対する想いをあますところなく展開させる、
心の波を穏やかにしてゆくことである。

第八の門:三昧(サマディ)
三昧とは、心がすべての形を捨てて、意味だけを映すようになった状態。
心の波が凪いで、湖のようになった状態をあらわす。

以上の三つの行法は「統制(サンヤマ)」と称され、1つの対象に対して行うものだ。

統制を果たした時に、知恵の光が輝きだす。
心の曇りが取り除かれ、雲の向こうの太陽の輝きを享受できる。


サンヤマは順序良く進められなければならない。

ほかの5つの部門と異なり、己の内面で進めてゆく部門である。

しかしこれらも、「無種子三昧(ニルビージャサマディ)」
己の中の可能性という枠組みを超越し、大いなる可能性そのものとなった状態
(明鏡止水)
から見ると、外的部門に過ぎない。




雑念を打ち消し、克服することで、心のブレがなくなる瞬間がある。
これを 峪潴播省僉淵縫蹇璽瀬僖螢福璽沺法廚箸いΑ

克服し続けることで、心は静かに保たれる。

その瞬間を持続させ続けることで、何ものにも惑わされない
◆峪伊翕省僉淵汽泪妊パリナーマ)」となる。

過去となり遠ざかる想念と、今まさに生じる想念が同じものであるならば
それは「専念転変(エーカグラーターパリナーマ)」となり、
一層固くゆるぎない集中となる。

これらによって、物質元素と感覚器官に関する法(現象)、時間、様態の
3種類の転変が説明された。


「実体」とは、過去、現在、未来、すべてにおいて常に存在する。

実体が移り変わってゆくことは、法(ダルマ)が移り変わってゆくことの証拠である。

3つの転変に対して、サンヤマを行うことで、過去や未来が分かるようになる。

言葉と対象と意味とを混同するために、混乱が起きている。これら三者の区別にサンヤマを施すことによって、あらゆる生きものと意思疎通ができる。

自分のパターン(サンスカーラ)に対して、サンヤマすることで、前世の知識が得られる。

他人の想念をサンヤマすることで、他人の心を知ることができるようになる。
しかし、その知識は他人の想念の対象までも含むわけではない。
範囲は想念だけにとどまり、その対象には及ばないからである。

自分の肉体の形態に対してサンヤマをなすことによって、他人の知覚がさまたげられ、
ヨーギーの身体は誰にも見えなくなる。
同様に、話される言葉なども、聞こえなくすることができる。

業(カルマ)にはすぐ発現するものと、そうでないものとがある。
カルマにサンヤマすることで死期を知ることができる。
あるいは死期の前兆をサンヤマすることによっても知ることができる。

友愛など、様々な感情にサンヤマすることで、ヨーギーは豊かにその性質を得られる。

ゾウやその他のものの力の上にサンヤマをすることで、その力を得られる。

心にサンヤマを加えるとき、遠くを見る力が現れる。
太陽にサンヤマを加えると、宇宙を知る力が現れる。
月にサンヤマを加えるとき、星の配置を知ることができる。
北極星にサンヤマを加えて、星の運行を知ることができる。
へそにサンヤマを施せば、体の組織を認められる。
喉にサンヤマを施せば、餓えと渇きが癒される。
亀のナーディー(気の通り道)にサンヤマをすれば、忍耐する力が現われる。
頭頂にサンヤマを行うことで、シッダ(神々)に会いに行ける。
照明智(プラティーバ)にサンヤマを施せば、すべてのことを知ることができる。
心臓にサンヤマを施せば、心を知ることができる。

サットヴァとはプラクリティ(客体みられるもの)の状態であり、
プルシャ(真我みるもの)とは混合しないのに、
混合してしまうことがプルシャの見せかけの経験と呼ばれる。
そこで、サットヴァを捨て、プルシャに対してサンヤマすることで、
プルシャの光が生じる。

プルシャをサンヤマすることで、
智慧の光や超人的な五感(聴覚・触角・視覚・嗅覚・味覚)を得られる。

もっともこれらの超能力は、本当のサマディの妨げとなるものなのだが・・・


心(チッタ)の束縛をサンヤマで弱めることで、他の者の肉体に入ることができる。

ウダーナと呼ばれる気を制御することで、水の中または泥沼の中にも沈まない。
いばらの上なども歩くことができるし、意のままに脱出することができる。

サマーナと呼ばれる気を制御することで、身体から炎を発することができる。

聴覚と虚空(アーカーシャ)にサンヤマを施すことで、天耳通が得られる。

肉体と虚空(アーカーシャ)にサンヤマを施すことで、神足通を獲得できる。


完全に心が体から抜けると、大脱身となる。
大脱身では、トリグナを、完全に払い落して、
真我の光明を覆う、あらゆる障害が消えている。

五元素(空 風 地 火 水)に対して
粗雑・本質・微細・内在・目的別にサンヤマを施すことで、
あらゆる物質を完全に支配することが出来る。
粗雑というのは、私たちが感覚で認識できるもの、とらえるのが容易なもの
本質というのは、感覚で認識できるもの、その背後にある普遍的なこと。水は流体だとか、火は熱いだとか、そういったもの。
微細というのは、われわれの感覚器官ではとらえることができないけど、ちゃんと存在しているモノ。感覚器官、行動器官、生理、考えといった要素。
内在というのは、物質世界を構成する3つのグナの組み合わせのこと。この世界に顕れているすべてがグナの組み合わせによってできている。
目的というのは、すべての存在はプルシャ(真我)の経験と解脱のためだけにあるという、そういう目的のこと。
五元素を支配するようになれば、身体を小さくも大きくもできる神通力が現われ
また肉体が完全になり、何物にも破壊されなくなる。

完全な肉体とは、端麗、優雅、強力、金剛不壊の強靱さをいう。

このように、三つのグナを支配できるなら、
自らの感覚を克服できるようにある。

俊足を得、千里眼を得、世界を牛耳る力を得る。

みられるものであるサットヴァと、みるものであるアートマンを見極める力こそが、
全てを知り、総てを統べる力となる。


以上のようなすぐれた超能力が付いても、
それに捕われ、惑わされなければ(離欲 ヴァイラーギャ)
すべての悪いビージャ(業)が絶たれて、
真我の独存の状態(カイヴァリヤ)となる。


たとえ、天界の住人たちの誘惑に誘われたりおだてられたりしてはならない。
再び悪いことを引き起こしてしまうからである。


その瞬間、その瞬間の連続に対して、サンヤマを施すことで
その瞬間の連続と状態の関係を識別する智慧が生じる。

これにより、種類・特質・位相によって区別を立てづらく全く同じに見える二つの対象を区別することができるようになる。


これこそ、分析の智慧「ターラカ」である。

ターラカは、救世主・解放者という意味であり、
我々を、輪廻の大海から、救い上げてくれる。
この世を一度に捉えて、この世の一切が分かる智慧のことである。



プラクリティが清められ(サットヴァ)、プルシャの状態と等しくなった時、
本当の自由「真我独存(カイヴァリヤ)」=「無種子三昧(ニルビージャサマディ)」
が得られるのだ。


 行きづまったら、美味しいカレーを食べるとよい考えが浮かんできます


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ヨーガスートラ 第2章 〜たましいを磨く方法

  • 2014.04.28 Monday
  • 10:00
第1章の続きです。

この章はヨガスートラの根幹 

誰でも悟りを開くためのガイドブックたるゆえんの章 

かなり手ごわかったです 


第2章 〜たましいを磨く方法

クリヤーヨーガとは「行いのヨーガ」である。

―す圓望霰をささげること

⊃瓦鮃發瓩觸駟を読むこと

自在神を祈念すること

上記の3つをおこなうことで、煩悩を弱めて、三昧に至る。

すなわち心の荒波を乗り越え、ほんとうの自分を発見することができる。


クレーシャ(煩悩)には、無明、我想、貪愛、憎悪、生命欲などがある。

その内、アヴィディアー(無明)は、煩悩の畑のようなもので

その他の煩悩はそれぞれ、眠ったり、弱まったり、成長が止まったり、繁栄したりするが

無明は常に、その他の煩悩をはぐくむ根本的な存在である。


無明とはすなわち、
はかないものをいつまでも続くものと思ったり、
けがらわしいものを清らかだと勘違いしたり、
苦しみを楽しみととらえたり、
他人のいいなりになっているのを自分の考えと
間違った判断を下してしまう、心の中によりどころがない状態。

無明が引き起こす
アスミター(我想)は、主体と客体を混同してしまうこと。
見る者としての真我と、見る心の働きである仏性。
これら二つのものを、同一に捉えることである。

ラーガ(貪愛)は、快楽に溺れる心情であり
ドゥヴェーシャ(憎悪)とは、苦しみに囚われる、心情であり
特にアヴィニべーシャ(生命欲)には
賢者たちも、執着してしまいやすいのはよく知られている。


これらの煩悩がまだ発芽せず、隠れている段階で取り除くためには
心を反転させ、無明を解き放つことによって、初めて除去できる。


芽生えてしまった煩悩は、内観により、除去できる。

カルマアーシャ
(行動と結果の貸し借り倉庫)とは
煩悩に由来するものであり、
現世であるいは、来世において清算される。

これらあるかぎり、輪廻転生が続く
(さまざまな生類へうまれかわって清算し続ける)

善きカルマ(業)は、後に楽しみが報いられ
悪しきカルマは、後に、苦しみが報いられる。


しかし、賢者から見れば、善いカルマも悪いカルマも全てが苦しみの種である。

何故かといえば、
煩悩を楽しめば、それを失う恐怖や猜疑心
執着心という新たなる煩悩に苦しめられる。

また心は性質変化(グナ:覚・動・鈍)が繰り返されて
心のブレに、もてあそばれる運命にある。


ヨーガ行者が修行で除去すべきは、未来の苦悩である。
見るものと(真我)と、見る働き(心)を混同することこそが、苦悩の原因である。


客体として、見られるものは
.廛薀ーシャ(目覚める)
▲リヤー(進む)
スティティ(止まる)

上記の3つのグナ(性質)を持ち、
自然界(地水火風空)や私たちの感覚器官を構成する。

更にこれらのグナ(性質)には、四つの形態がある。
〔楹个瓩なく未発達の段階
¬楹个瓩燭発育していない段階
3菷に発達している段階
せ澆泙訝奮


主体として、みるもの(真我)とは、純一な存在である。
しかし、心の働きを介して、それ以外をみている。

みられるものは、みるもののためにある。

それらの理を理解し、悟りを開いた真我に対して
みられるものはその役割をおえるが
他のものとの共有財産なので、実際になくなりはしない。

みるものとみられるものの関係は、主従関係のようにお互いの存在意義となる。

実はこの結合関係(サンヨーガ)は、実は無明がもたらしているまやかしである。

無明を越えると、結合も消えて、自由(カイヴァリヤ)になれる。

自由になるためには、揺るがない判断力(ヴィヴェーカ)が必要である。


ヴィヴェーカを得た人は、天上への7段階のはしご(サプタダー・ブーミー)を得る。

 ,△舛海疏り回っても、外に答えはない、自分の中にあること、己を知ることが重要
◆“瓩靴澆箒貲困癲⊆分の心が作り出していることを理解すれば、避ける必要がなくなる
 心を完全に理解した時に、学びを外に求める必要がなくなる
ぁ\こΔ鰺解すれば、すべては必然であることがわかる
ァ_燭發覆垢戮ことはないと悟ることで、心は記憶から解放され、乱されなくなる
Α/瓦牢袷瓦望辰┐討靴泙Δ、それは恐れる事ではない
А)榲の自分(プルシャ)にたどり着き、安寧する


またヨーガを修練していくことで、心の曇りが取り除かれ

更なるヴィヴェーカを極めることになる。



ヨーガは、八つの部門から、成り立っている。

第一の門は、悪業を捨断すること、禁戒(ヤマ)である。
第二の門は、善業を蓄積すること、勧戒(ニヤマ)である。
第三の門は、身体を調整すること、坐法(アーサナ)である。
第四の門は、呼吸を調整すること、調気法(プラーナヤーマ)である。
第五の門は、感覚を制御すること、制感(プラティヤハーラ)である。
第六の門は、意識を集中すること、凝念(ダーラナー)である。
第七の門は、対象に没入すること、静慮(ディヤーナ)である。
第八の門は、ヨーガのゴール、三昧(サマディ)である。


他者に対する誓い、ヤマには、五つの戒がある。
“麕塾蓮´∪議勝´I堙陝´ざ慷漾´ド夛
アヒムサ、サティヤ、アステイヤ、ブラフマチャリヤ、アパリグラハ

これらは、身分・地域・時代・文化を超えた、守るべき偉大なる誓いである。

自分に対する誓い、ニヤマには、五つの戒がある。
\蕎堯´知足 修行 だ仕菊赴屐´ゼ在神祈念
シャウチャ、サントーシャ、タパス、スヴァディヤーヤ、イーシュヴァラプラニダーナ


もし、戒を破ろうとする、邪念が生じたなら、それに対抗する思索を行う。

たとえば、他人を傷つけたいという邪念には、
いじめのように、やったもの・やらせたもの・認めてしまったものなどがあり
強欲からであっても、怒りのためであっても、迷妄からであっても、
小さなことであっても、中くらいのことであっても、大きなことであっても、
そしてそれらは、かぎりない苦しみをもたらす・・・。
ということを知らない、無知に根差すものである。

これが、邪念へ対抗する思索である。


第一の門:禁戒(ヤマ)

アヒムサ:考えや言葉や行動で人を傷つけないようにすると、周りの者が、和むようになる。
サティヤ: うそをつかなければ、自分に自信が持てるようになる。
アステヤ: 盗みをしなければ、あらゆる珠玉が集まるようになる。
ブラフマチャリヤ: 婚姻関係の責任を全うすれば、老いても粗末にされることはない。
アパリグラハ: 受けるに値する以上の財産を受け取らなければ、来世のカルマの清算になやまされなくなる。


第二の門:勧戒(ニヤマ)
シャウチャ:限りある肉体を手入れし、理解することで、過度の期待がなくなる。本来の自分を活かす喜びに目覚め、心の波が穏やかになり、集中力が増し、直感能力が高まる。
サントーシャ:充足の閾値を見極めることで、幸福を理解し、欲望から解放される。
タパス:修行に励むことで、心と体の曇りが取れて、神通力が現れる。
スヴァディヤーヤ:心を高める書物を読み、賢人の智慧を学ぶことで、意識が上昇し、神に会える。
イーシュヴァラプラニダーナ:己の中の可能性を念ずることで、三昧が成就する。


第三の門:坐法(アーサナ)
アーサナは安定して、快適でなくてはならない
安定して快適なものにするためには、緊張を緩め、
心を広大なる無辺と合一(2極の対立から解放)しなくてはならない
そうすれば、ヨーガ行者はもはや
寒い熱い、苦しい楽しい、けなすほめる、金がない金がある
などの世俗的な苦悩から悩まされることがなくなる

第四の門:調気法(プラーナヤーマ)

坐法が整い次第、調気法を行じる。
調気法とは、粗雑な呼吸の流れを止めることである。
呼吸は、‥任 ∋澆瓩襦´5曚Α´せ澆瓩襦,裡瓦弔料箸濆腓錣擦らなり、
どのような個所へ、どのくらいの長さで、何回行うかを調整してゆくことで
細く、長く更に洗練された呼吸法へと自然に変わる。

調気法を極める事で、内なる光(プラカーシャ)を覆い隠していた、心の闇(煩悩)が消え去る。その結果、心の働き(マナス)が集中に耐えられるようになる


第五の門:制感(プラティヤハーラ)

制感とは、対象から感覚を切り離して内側に向かわせること。
修習していくことで、あらゆる感覚器官を制御することができるようになる。




たましいを磨く試練。第6以降の門は3章へ続きます
あたまで考えてばかりではいけませんので、お散歩など楽しんでくださいね


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ヨーガスートラ 第1章 〜心の波を乗り越える

  • 2014.04.25 Friday
  • 08:03
 
皆さんはヨーガスートラをご存知ですか?

ヨガはもともと過酷な世の中、限られた運命の中で
どう心やすらかに、自分にしかできない人生をまっとうするか
という哲学的なところからスタートしています
B.C 2500(今から約4500年前)にはじまったヨガのバラバラした教えをまとめたのが
ヨーガスートラ(B.C 2~ A.D 450)
実はもうすぐヨガ指導者養成講座が始まるのですが 
意外にネットにヨーガスートラのシンプルな訳が載っていないので
このたび載せることにしました。私自身が原文と突き合わせていない意訳ですが
古代の英知をお楽しみください。まずは第1章


第1章 三昧章(心の波を乗り越える章)

これから、ヨーガについて解説をしよう。
ヨーガとは、心の余計な働きを捨てることである。
心のざわつきが鎮まると、真我は、本当の自分の姿に止まる。

心の波がざわつくと、真我も乱れるが
心の波が鎮まると、真我はそれらから解放される。

心の作用には5種類ある。
\誼痢↓誤謬、J別、た臾押↓サ憶
これらそれぞれが、煩悩性と非煩悩性のものに分かれる。

\誼里箸蓮∋絢鑪燹
経験による知識、推理による知識、聖典に基づく知識。

誤謬とは、対象本来の姿に基づかない、間違った知識。

J別とは、言葉や概念上の知識で、主語次第で揺れ動く、その意味で客観性に欠ける判断。

た臾欧蓮虚空の体験。
 
サ憶とは、過去の経験から心が去っていないこと。


これらの波を乗り越える為には、 修習と離欲という、二つの方法が不可欠である。

修習とは、動いている心を止める努力である。 辛抱強くおこなうことで、必ず止まる。

離欲とは、心の波を引き起こす、あらゆる対象から、離れてしまうこと。
いわゆる悟りを開いた人の知恵であり、感情の起伏(三徳)にすら執着しない。


三昧とは、ヨーガのゴール「悟りを開くこと」で、2段階ある。

〕想三昧:尋・伺・楽・我想 の4段階を経て、得られる悟り
¬義杙伊罅Ц腓蠅世瓜弔辰討い訃態(神の領域)


出家した人は、生きている以外の点で無想三昧に限りなく近づくが、
その他の者(在家のヨガ行者)は、精進の結果、無想三昧に近づく

情熱があるほどに悟りへの道も短縮されるだろう。
情熱にも3程度あり(激・中・穏)それに応じて、無想三昧の完成は早い。


あるいは自分の中の信仰心を育てても(自在神祈念)、無想三昧に到達する。
自在神とは、煩悩や業に汚されていない、真我であり、あらゆるものを生み出す最高の種子(可能性)を持っている。

自在神は、時間を越えた、存在であるため、今も昔も変わることがない。
その至高神を、音で表した物が、AUMである。

AUMを唱えながら、自在神を念じなさい。
そうするならば、内観の力を得て、心のざわつきを乗り越えることができる。
 
心のざわつきとは
病、無気力、疑、放逸、怠惰、貪欲、執念、その他心が乱れた状態、三昧に止まれない状態のこと。

心が乱れ、曇るほどに、手足が震え、 呼吸が乱れ、苦悩や不満が噴き出して来る。
これを治すには、繰り返し、一つのものに思念を集中させる。

・慈悲喜捨の心を持って、他人の幸・不幸・善行・悪行に折り合いをつける
・呼吸法を行い、心を清澄にする
・感覚を制御する(眼の先に、心を集中させると、良き色が生じて、 耳の先に、心を集中させると、良き音が生じて、 鼻の先に、心を集中させると、良き香が生じて、 舌の先に、心を集中させると、良き味が生じて、 身の先に、心を集中させると、良き触が生じる。)
・静かに瞑想して白い光を帯びた意識を発現させ、純質性を高める
・心清らかな聖者を念じる
・夢で神に会い、目覚めてもそれを念じる
・好む物を念じる

以上のような方法で、心が動かなくなった者は、 神羅万象の境地を得る。

こうして、心の曇りが完全に消えたとき、
透明な宝石が、その傍らの花の色に染まるように、
心は、認識の対象か、 認識手段の器官か、認識主体の真我に定まり、それに染められる。
これが「定」とよばれるものである。

「定」には、
感覚の記憶が混じる粗雑な段階の〕尋定から¬疑卍
更には対象に縛られないM伺定ぬ技把蠅悗反爾泙辰討罎
「有種子三昧」へと昇華する。
〕尋定 ヴィタッカが残った
¬疑卍蝓▲凜タッカが消えた
M伺定、ヴィチャーラが残った
ぬ技把蝓▲凜チャーラが消えた

たとえば、鐘を鳴らすと、後まで響くよう
ヴィタッカ、尋とは、鐘を鳴らすことであり、
ヴィチャーラ、伺とは、後まで響くことである。
鐘を鳴らすという行為に依存せず、
更には鐘の音に依存せず、響きへ気づきのみへ意識を集中させる
無伺定を繰り返すと、内なる清澄が生じる。

その中から、直観智、プラジュニャーが生じる。

この直観智は、過去の歴史から学んだり、推論から得られる知恵とは一線を画すものである。

この修行は、他の修行を圧倒する。

そして、最後に、この修行も乗り越えたところに

己の中の可能性という枠組みを超越し、大いなる可能性そのものとなった

「無種子三昧」が出現する。


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ここまで読んでくださりありがとうございました〜
ほっと一息 ティーブレイク♪ 


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